4月7日は光岡先生の兵法武学研究会でした。
一部では、立ちしゃがみ、棒を使って体の垂直感、を観る稽古。二部ではさらに棒を使って体の水平感を観る稽古までじっくり取り組みました。この稽古は体の沈みを体験し、現代とはちがう身体の層へ潜っていくもので集注が必要です。気を抜くと上に上がりたくなる体を更に潜っていけるかが肝心なところです。立つ〜中腰の姿勢でいるだけですが非常にきついものでした。それだけに自分の体がより観えてくると嬉しいものです。
二部の終盤は、光岡先生に中国の組技武術の摔角(シュアイジャオ)の棒を使った摔角の稽古をご紹介してくださいました。
手首、肘が観えている、ことが大切なことがよく分かり、これからやっていく稽古の一つになるかと思います。
現代の身体観が、フランスのデカルトから、さらに遡るとパウロのキリスト教的身体観によっている話もあり興味深かったです。
理性で把握できる身体(理性で設計できる社会)という考え方は広く西洋社会、ひいては現代日本もかなり毒されている思想です。
また、気という言葉の理解が、物理現象としての気(気の科学化)、心理現象としての気(気の神秘化)の二極になっていて、
(見えない)生命現象としての気の本来の意味が見えなくなっているとも。
しかし日本人は、気になる、気のせい、気が向く、など、
生活のなかにある本来の”気”が生きていてヨーロッパ、アメリカなどと比べるとまだ希望がもてると言われていました。
集注を気に向ける。気は見えない、空(から)であるところ、へ集注をもっていく。身体観がちがうので現代のトレーニングとは違う全く稽古です。